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第二話 十年前の夕焼け

ผู้เขียน: 海野雫
last update วันที่เผยแพร่: 2026-05-02 19:06:51

 終電が去ったあとのホームは、急に音がなくなった。

 紡は、ベンチの前にしゃがんだままで、しばらく動けなかった。有馬の目は、紡を見ているのか見ていないのか判別がつかなかった。ただ、目だけは開いていた。

 駅員の足音が、ホームの向こうから近づいてきた。

「お客さん、大丈夫ですか」

 近くで聞こえた声に、紡はようやく我に返った。膝を伸ばして立ち上がる。

「すみません、大丈夫です。すぐ出ますので」

 駅員は、軽く頷いて、別のホームへ歩いていった。紡は、もう一度、有馬に向き直った。

「有馬、立てる?」

 返事は、母音だけのような、よくわからない呟きだった。それでも紡の声に応えるように、有馬はゆっくり立ち上がった。立った瞬間、足元が大きくぶれて、紡はとっさに腕を伸ばした。

 有馬の体が、紡の腕の中に倒れ込んでくる。

 息が止まった。

「……お前、相当、酔ってるな」

 返事はなかった。

 紡は有馬の右腕を自分の肩に回し、もう片方の腕を有馬の腰に添えた。半身で抱えるかたちで、ホームを歩きはじめた。一歩、踏みだしただけで、想像していたよりずっと重たい体重が、紡の肩にのしかかった。記憶のなかの、リュックを揺らして歩く高校生の体ではなかった。当然のはずなのに、その当然が、紡には、どこか不思議に感じられた。

 肩越しに、整髪料の柑橘の匂いと、わずかな酒の匂いが交じる。十年前、紡が知っていた匂いとは、別の匂いだった。

「家、どこ?」

 肩を支え直しながら、訊いた。

「……えき、の……」

 呂律の回らない口で、有馬は、町名を呟いた。聞き取れたのは、都心からは少し離れた地名だった。終電は、もう、行ってしまっている。

「タクシーで送るから、しっかりしろよ」

 返事のかわりに、紡の肩で、有馬が小さく頷いた気配があった。

 なんで、こんなになるまで飲むんだ。

 心配と苛立ちのちょうど真ん中のような感情が、ふと、胸の奥に湧いた。誰に対しての苛立ちなのか、自分でも、よく、わからなかった。

 駅前のロータリーには、数人がタクシーを待っていた。紡は最後尾に並び、有馬の腕を、もう一度、肩で支え直した。冷たい夜気のなかで、有馬の体だけが、不自然に温かい。

 数分待って、空車が目の前に停まった。後部座席のドアが開くと、有馬の体を半ば押し込むように乗せて、紡もそのあとに乗り込んだ。運転手に住所を告げる声が、自分でも驚くくらい、冷静だった。落ち着いている、というより、感情が、まだ、追いついていないのかもしれなかった。

 車が走りはじめると、有馬は、すぐに、目を閉じた。

 窓の外を、街灯が流れていく。規則的に点滅する光が、有馬の顔を明るくしたり暗くしたりしていた。

 紡は、隣で眠る有馬の横顔を、見ていた。睫毛が、想像していたより、長かった。有馬の顔をこうして近くで見る機会など、十年のあいだ一度もなかった。

 頬骨の影が、記憶のころより、少し深い気がした。痩せたのか、ただ大人になっただけなのか、判別がつかない。十年というのは、人の顔にどれくらいの変化を残すものなのだろうか。紡は、自分の顔の変化を、自分ではうまく見られないことに、ふと、気づいた。

 車体が、信号待ちで一度、軽く揺れた。

 その瞬間、有馬の頭が、紡の右肩に、ことん、と落ちてきた。

 紡の体が、固まった。動かしたら、起こしてしまう、と思ったのは、たぶん、半分は嘘だった。動かしたくない、と思った。動かしたら、この重さが、もう、二度と肩に戻ってこない気がした。

 有馬の頭の重みと、髪の冷たさと、首筋からのぼるかすかな体温が、紡の右肩に、ぴったりと、染みていく。

 窓の外を見るふりをして、紡は、息を、長く吐いた。

 流れる街灯を眺めながら、紡は、十年前のことを、思い出していた。

 高校二年で同じクラスになり、なんとなく話すようになった。いつのまにか、毎日一緒に帰るようになっていた。紡が有馬を「好きだ」と自覚したのは、たぶん、二年の夏のあたりだった。気づいたときには、もう、そう思っていた、というのが、いちばん近かった。

 自分のなかにそういう傾向があることは、それより前から、なんとなくわかっていた。誰かに打ち明けるようなことではなかった。打ち明けたところで、なにかが変わるとも思わなかったし、変わってほしくもなかった。胸のなかにそっとしまっておけば、それで足りる感情だと、当時の紡は、信じていた。

 有馬の部活が終わる時間まで、紡はよく図書室にいた。机に教科書を広げて、勉強しているふりをしながら、廊下を通る靴音に耳を澄ませていた。閉館十分前、迎えにくるように現れる有馬の姿を、いまでも思い出せる。

 夕陽に照らされた昇降口で、靴に履き替えた。ブレザーを着てリュックを背負った有馬の背中を、紡は、ほんの半歩、後ろから歩いていた。並ぶこともできた。並んで歩こうと思えば、いつだって、できた。

 でも、紡は、半歩、離した。

 並んでしまうと、肩が触れる。手の甲が、触れる。触れた瞬間に、自分のなかの、なにかが、たぶん、勝手に動いてしまう。動いたら、止められなくなる気がした。だから、紡は、いつも、半歩、後ろを歩いた。

 有馬が歩調をゆるめて、紡を待つように歩く日もあった。そのたびに、紡もそっと、自分の歩幅を縮めた。ほんの一歩、踏みだしさえすれば、隣に並べた。並ばなかった。並びたくないわけではなかった。並んでしまうことが、こわかった。結局、その半歩は、卒業の日まで、縮まらなかった。

 有馬の部活仲間と別れる交差点で、紡は毎日、声をかけた。それがいつしか、どちらからともなく、その交差点で待ち合わせるかたちに変わった。

 ある日、クラスメイトが、ふたりの様子を冷やかしてきた。

「なあ、お前ら、付き合ってんの?」

 紡は、考えるより先に、答えていた。

「そんなんじゃないよ」

 声は、思っていたより、軽く出た。なんでもない、というふうに、笑ってさえみせた。あのとき、有馬は、どんな顔をしていただろう。

 紡は、あのときの有馬の顔を、見ていない。

 正確には、見ないようにしていた。

 タクシーが、ゆっくりと、停車した。

 見ると、少し古びたマンションの前に、車は停まっていた。

「ここで、ちょっと待っててもらえますか」

 紡は運転手に頼み、有馬を揺り起こした。

「有馬、着いたよ」

 有馬の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。駅のベンチで眠っていたときよりは、いくぶん意識がはっきりしているように見えた。

 紡を見て、有馬は少し笑った。

 その笑い方が、十年前と、同じだった。

 紡は、胸の奥を、見えない手で、ゆるく握られたような感覚に陥った。

 なにも、言えなかった。

 有馬の腕を肩に回したまま、エントランスへ歩く。オートロックの前で、有馬ははじめてはっきりとした声を出した。

「ここまででいい。……すまない」

 そう言って、紡から半歩、距離を取った。足元は、まだ、おぼつかない。建物の中にさえ入れば、エレベーターまではなんとかなる。そう自分に言い聞かせた。

 別れの言葉を口にしようとして、紡は迷った。迷って、鞄から手帳を取りだしていた。

 手帳のページを一枚、やぶる。ペンで自分の名前と携帯の番号を書いた。書きながら、頭の片隅で「自分はなにをしているのだろう」と思った。この十年、こちらの番号は向こうから求められたことが一度もなかった。求められなかった番号を、こちらから渡している。

 それでも、紙を、小さく折りたたんで、有馬のジャケットの胸ポケットに、そっと、押し込んだ。

「……俺の、連絡先。なんか、あったら」

 有馬は、表情を変えずに、ひとつ、頷いた。

 「頷いた」という、それだけの動きが、紡にはなぜか過分に思えた。

 有馬の背中が、エントランスの自動ドアの向こうへ消えるまで、紡は、その場で見送った。後ろ姿が、見えなくなったあとも、しばらく、紡は動けなかった。

 タクシーに戻り、自分のマンションの住所を告げる。声がわずかに掠れた。

 車が再び走りだす。後部座席にもう、有馬はいない。さっきまで、紡の右肩で眠っていたはずの重さも、もうない。なのに、肩のあたりだけが、まだ、温度を覚えている気がした。

 ジャケットの胸ポケットには、有馬の手が触れた感触まで、紡には残っていた。あんなに緊張して、紙切れを一枚、押し込んだだけだ。それなのに、自分のほうがなにか大きなものを相手から預かったような気持ちになっていた。

 紡は自分の指先を見た。

 膝の上に置いた手の指先が、ほんの少しだけ震えていた。

 うれしいのか、こわいのか、ほっとしているのか、不安なのか、自分のなかの感情にまだ名前がついていなかった。連絡先を渡した。連絡がくるかどうかはわからない。十年前、自分の知らないところで連絡を絶った人がいる。十年後の今夜、こちらから差しだした番号を捨てずに持っていてくれる保証は、どこにもなかった。

 それでも、紙を渡したことを、紡は後悔していなかった。後悔していない、ということだけがいま、自分のなかではっきりしている唯一の感情だった。

 十年、会えなかった人が、ついさっきまで自分の肩で眠っていた。それだけのことが、こんなに自分の体をばらばらにするとは思わなかった。

 窓の外を、街灯が流れていく。

 紡は目を閉じた。閉じても瞼の裏に有馬の笑い方が残っていた。

 今夜、家に帰って眠れるだろうか。

 たぶん、眠れない。

 そう思いながら紡は、もう一度自分の右肩にそっと手を当てた。布越しの肩に、自分の指の温度しかもう感じなかった。

 それでも紡はしばらくその手をはなさなかった。

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